大町登山案内人組合の歩み

 大町登山案内人組合とは

 長野県観光案内業条例(案内人の資質の向上と業務の適正化を図り、もって観光案内業の健全な発達と観光客接遇の向上に資する事を目的とする。)の定める試験に合格し、許可を得た登山案内人(山岳ガイド)の集まりです。
 組合としての主な事業は、以下の通りです。
 山案内業の健全な発展、身分の安定のための事業。
 会員の資質、技術の向上のための事業。
 会員相互及び他機関との交流のための事業。
 自然、登山環境の整備保全、遭難防止等地域社会の発展に寄与する事業。
 その他必要な事業。

 大町登山案内人組合の歴史

 大町登山案内人組合は、全国に先駆けて大正6年に百瀬慎太郎が設立しました。
 さかのぼる事大正2年、陸地測量部発行の五万分の一の白馬岳、黒部、大町、立山が発売され、大正5年には、大町駅が新設され、白馬岳はじめ、北アルプスへの登山口となりました。 これらの出来事は、登山客の増加に拍車をかけました。「登山案内人」という名前が使われるようになったのもこの頃からだそうです。ところが、登山客は増えているのに対して案内人の数が限られている為、案内できる人を増やすことが早急に必要となってきました。また、案内人の質に対する不満の声も多く聞かれていたのでした。 一方、案内する側からみると、客の横暴に苦労するというような事もあったわけです。 そして、対山館(百瀬慎太郎の生家)は客に請われた案内人の世話もしていましたから、案内人と客とのトラブルに立ち合うこともあったはずです。ですから、案内人を組織だったきちんとしたものにしなければというのは、対山館にとっても、差し迫った問題であったのです。
 大正6年、百瀬慎太郎は日本山岳会のバックアップをうけ、日本で初めての試みを実行いたします。それが、「大町登山案内人組合」の設立です。小島烏水が明治39年に、登山案内人の育成の必要性について述べていた事柄が、百瀬慎太郎によってようやく実現されたのでした。
 この案内人組合の設立に当たって、百瀬慎太郎は十八条の「案内人組合規約」と「案内者心得」を作っていますが、この内容を見てみますと、「大町登山案内人組合」というものが、日本初のものであったばかりでなく、その規約の中身も充実し、非常に高いレベルにあったのだということがわかります。そして、それは百瀬慎太郎という人の教養の高さを示すものでもあり、この信州の片田舎にありながら広い視野を持っていたということになるでしょう。
 規約の中の第二条に「組合は善良にして敏捷なる理想的案内者の育成を目的とす」とありますが、「理想的案内者の養成」を実現するために、さらに十三項目からなる山での行動の規範を示した「案内者心得」が作られました。それらをみますと、自然保護への姿勢や後継者作りをどうするかといったことにまで考えがおよんでいるのがわかります。 これらの規約や心得を通して、単なる道案内ではなく、山についての高度な知識、エチケットを身につけた良識あるガイドの育成をめざし「大町登山案内人組合」は誕生しました。そして、その誕生は隣の白馬村を始め全国各地に誕生してくる登山案内人組合の模範となりました。猟師たちの片手間仕事であった案内人の時代から、専門的な知識をもったプロとしてのガイド時代が始まったわけです。
<石原きくよ女史 80周年記念誌より>

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